勉強の本質 受験勉強

【本質論】「受験勉強」と「社会に出てからする勉強」の違いとは?

2022-01-02

「完全情報」と「不完全情報」の違い

その時、あなたは判断できますか?

「これからの『正義』の話をしよう ~いまを生き延びるための哲学 ~ 」(早川書房)。

ハーバード大学の政治学者・マイケル・サンデル教授のベストセラーです。

ハーバード大随一の人気授業が本になったもので、発刊された2010年には、ちょっとしたブームになりましたね。 

この本の中で教授は、何をもって「正義」とし、「公正」とするかを取り上げ、

「暴走する路面電車」と題して、次の問いを学生に投げかけます。

 ※そのまま引用すると長く、複雑な事例なので、筆者がシンプルにしてお伝えすることをご了承ください。

  • あなたは電車の運転士で、時速100km近くで走っている。
  • 電車を止めたくても、ブレーキがきかず、暴走状態になっている。
  • 線路の先には5人の作業員がいる。
  • このままいくと、確実にこの5人を轢いてしまう。時間はない。
  • すると線路に分岐が見えてきて、線路変更すれば5人を轢くことは避けられそう。
  • でも線路変更した先にも1人、作業員が立っている。


さて、あなたは、どうしますか?

「5人には悪いが、まっすぐ進むしかない」のでしょうか。

あるいは、分岐を進むことで、

「1人を轢くのは悲劇だが、5人を轢くよりはマシ」なのでしょうか。

すると「命の重さ」は、数におきかえればよいのでしょうか?

あるいは
「第3の解決方法を探す」のでしょうか。でも時間がないのです。

じゃあ、どうすればいいの?

あかり
たすく

そこを考えるための問いです。
「あなたが全責任を負う立場にある者として、どう判断しますか?」ということです



今度は別のパターンを考えます。

  • 上記の作業員5人の正体が「凶悪犯」で、分岐の先の1人は善良な人であることを知っていたとしたら、あなたはどうしますか。


先の問いで「5人」のほうを選んだ人は、今回も同じ結論になるでしょうか。

また 「1人を轢くのは悲劇だが、5人を轢くよりはマシ」と考えた人は、今回も同じ考えになるでしょうか。

話は分かるけど、判断がすごくむつかしいわね

あかり


さらに別のパターンを考えます。

  • 1人のほうが善良な人で、5人のほうは凶悪犯だったとします。
    でもあなたはその情報を知りうる状況になかった場合、どう判断しますか。


真実を知らないあなたは、この時「5人」を選びますか。

「1人を轢くのは悲劇だが、5人を轢くよりはマシ」と考えますか。

それとも数秒の間に「第3の解決方法」を出しますか。

なんか後々、悔いが残ることしちゃいそう

あかり

  
  

現実は「待ったなし」

--さて皆さん、いかがでしょうか。

冒頭にもありましたが、何をもって「正義」とし、何をもって「公平」といえるのでしょうか。

「正解は一つじゃない」「あくまで架空の話」。

そう言っていられる間は、幸せかもしれません。

いずれか一つに決めなければならない場合が、現実にはあります。

現実は「待ったなし」なのです。


しかも同じような状況でも、ちょっとした条件の違いによって、判断というものは大きく変わってしまうわけです。

さらに面倒なことに、その時点ではベストを尽くした判断が、結果として最悪以外の何物でもなかったり、


逆に、予想外によかったりするわけです。

これが、結果において責任を負うこと(結果責任)の厳しさです。


しかし、です。

あらかじめすべてを知ってから判断することなど、不可能なんですね、そもそも。

すべてがわかっている「完全情報」など、普通は手に入りません。

何とか手に入れられるのは、「不完全情報」ばかりです。

果たしてなにが正しかったのか、最後まで全ぼうが見えないままなのです。

ほとんどの場合、「不完全情報」のさらに一部分にすぎない「断片情報」をもとに判断するしか、すべがないのです。

それは判断というよりも、経験則も加味した「決断」といったほうが適切です。

意思決定というのは「断片情報」をもとにした「決断」の連続、というのが現実に即した感覚でしょう。


そのうえで、
  

「正しい」と思って判断したことが、「悪を助長する結果」になったり、

「公正」を期したつもりが「不条理 極まりない結果」になることもありえます。

いずれにしても、その「結果に対する責任」をすべて、一身に負わなければならないのです。


したがって後で触れますが、「断片情報」から「決断」に至るまでの質をいかに高めていけるか、これが本当に重要になってくるのです。

上記の暴走列車の例は、単なる架空の話にとどまるものではなく、話の構造的には、ぼくたちがよく直面する問題でもあります。

ちなみにハーバードでこの授業をやるのは、同大学の多くの学生が近い将来、国家や社会のエリートとなり、高度な判断を行うにあたって必須の素養となるからです。

余談ですが、政治などは、結果責任の最たる例にあたります。

政治の良し悪しなどは、やってみないと分からないものです。

政治の良し悪しは、時の為政者の人柄がいいとか悪いとかで決まりません。すべて結果責任です。

良かれと思っての判断が裏目に出たとしても、また、めぐりあわせが悪かったとしても、「内閣総辞職」などの形で結果責任を取らされるわけです。
 

たすく

コロナ禍が収まらない責任を取る形で退陣した後、みるみる感染者数が減ったのは、記憶に新しいよね。
運がなかったのかな

こらこら

あかり

  
 

受験勉強とは「完全情報の習得」

さきほど「完全情報」「不完全情報」について取り上げました。

ではこの点からいえば、受験勉強はどちらにあてはまるでしょうか。

そうです。「完全情報」による学習体系といえます。

どんなに難しい問題も、答えは確実にあるからです

なぜなら、

出題者側が説明責任を果たせないような問いは、問題にできないのです。



ただし才能を重視する特殊な試験では、答えの分かれることを聞いたり、答えのない問いを出して創造性を試してくることがあります。

しかし一般的な大学入試の試験は、必ず明確な解答が用意されています。

つまり受験勉強とは、「明確な答えのある事柄を学ぶ勉強」です。

「明確な答えが用意されている世界において、求められる答えを導き出すための訓練」でもあります。

「完全情報から一部分だけとった断片情報を与えられ、それをよすがにして完全情報へと復元する作業」ともいえるでしょう。

そういう作業は、時間をかけた積み上げがモノをいいます。

解法や思考のパターンを蓄積した人が強いのです



余談ですが、東大・京大なども、授業以外の時間で少なくとも1500~2000時間必要といわれています(※絶対論ではありません)。

ぼくの経験的にもそれは、あてはまっています。

東大理Ⅲ、京大医学部になると6000~10000時間は必要と、卒業生の友人が言ってました(※絶対論ではありません)。

最近は受験生のパイが減り、見た目の倍率は変わらなくても正味の競争率は減っているので、その分、もっと少ない時間で受かる時代なのかもしれません。


いずれにせよ受験勉強では、自分で解けないときに「解答・解説」を見ることができるのです。

すると受験勉強で鍛えられる能力というのは、

つまるところ「記憶力」「理解力」のほか、

「計画遂行力」

「情報を処理する力」

「筋道を立てて考える能力」

「検証・総括をする力」

「マルチタスクの遂行能力」といった、

枠組みの決まっているタスクへの対応力・処理力が中心です。

そこに「ストレス耐性」など精神的な能力も加わるといったところでしょう。

社会で続ける勉強は「不完全情報への対策」

一方、

「共感できる力」

「協調できる力」

「ささいな表情から相手の気持ちを察する力」

「空気を読む力」

「人の心をつかむ力」

「感情の機微をうまく処理する力」

「胆力(=自らの責任において事に当たれる力)」

「経験知に基づいた断片情報からの判断力」

などは、どうでしょうか。

いわゆる「人間力」「総合力」などと称されることもありますが、いずれにせよこれらの力は、先天的な才能がある人以外は、実社会でもまれる中、後天的に身につけて磨いていくことがほとんどでしょう。

とくに「胆力」などは、どんなに賢くても、持てない人には持てないものです。

でも人間のスケールが小さいと、人をうまくオーガナイズできないので、大きな仕事はできませんからね。



そして「判断力」。

これは先ほどから述べている通り、社会で得られる情報は、ほとんどが「不完全情報」です。

もっと正確にいえば、「不完全情報」のさらに「断片情報」です。

その「断片情報」を組み上げ直して「完全情報」になることはまれです。

最後まで「不完全情報」の世界のなかで、「断片情報」から判断をしないといけないわけです。
 

まるで針の穴から世界をのぞこうとするようなものだね

あかり
たすく

本質的には、そうなるよね



得られた断片情報を「どう見て」「どう捉えるか」は、人によって異なります。

そしてその見方の優劣が、結果の優劣に直結します。

したがって、断片情報を得るだけでにとどまらず、欠落した部分を少しでも埋めていける力が必要です。

それは不断の努力があってこそつけられることは、言うまでもありません。

皆さん、ご経験の通り「わからない」からといって、正しい答えは誰一人、教えてくれません。

というか、未来がどうなるかなど、誰も知りようがないのです。

そんな中で、総合的に判断を下すわけですが、カンだけではできないので、
知識と経験、能力を総動員して対処していくわけです。

そのために、

「本質を考え、見抜く力」

「知識と知識を横断的に結び付けて判断根拠に変えられる力(=結晶性知能)」

を磨いていく必要があるわけです。

判断根拠を統計に基づいた確率論に置き換えて判断することもあります。

何を根拠にどう判断するかはまったく自由ですが、あとで全部「結果責任」で自分に返ってきます。

するとやはり「判断の精度」を高めなくてはなりません。

したがって、学んでも学んでもきりがないような広い現実世界にあって、一定の問題意識をもって情報をしぼり、新しい状況に対応し続けられるような自分を作っていく学びが必要になります。

これが社会人になっても「学び直し」を続けなくてはいけない理由です。

まとめ

まとめますと、

受験勉強は中級までが「完全情報の習得」で、上級は「完全情報の復元・再現」です。

一方、


社会で続ける勉強は「不完全情報への対策」「どれだけ集めても完全情報にならない断片情報への対策」です。


なので両者は、おのずと勉強の方向性が違ってきます。

念のため、もう一回、かみくだいて

あかり
たすく

うん。
受験勉強は、すべて答えが存在し、解法も用意されている範囲内で、「一部の情報(断片情報)」を受験生に与えて、本来の「完全情報」が復元・再現できるのかを試すもの。

だから「わからない」ときは、「答え合わせ」をすることができます。

一方、社会で手に入るのは「最初から最後まで不完全情報」であり、「不完全情報のさらに断片情報」にすぎないもの。

しかも「完全情報などは普通、手に入らない」。

なので「わからない」からといって、「答え合わせ」ができないのです!

そういう難しさなんです、社会で試されるのは。

この違いがおのずと、勉強する内容や持つべき視点の違いになってくる、ということです。

すると当然、自分自身を折々にアップデートしていかないと、新しい流れにはついていけなくなります。

「学び直し」をせずに社会の第一線で通用し続ける、ということはあり得ません。

一流の経営者ほどよく本を読み、思索をするという実態が、その現実的な証左であるといえます


受験勉強は合否が決まれば終了する戦いですが、社会人生活は長い(約40年)。

また資格を取ったからといっても、それがわが身を助けるわけでもありません。

答えのある勉強だけでは限界があり、学生時代とは同じようにはいかないのです。

このことをあらためて認識するだけでも、勉強の方向性や内容が変ってきます。

「今から自分は何をすべきか」を考えるにあたり、計画や優先順位も変わってきます。


社会人の具体的な勉強方法については、そのうちお伝えします。

たすく

受験勉強は「完全情報」の世界ではありますが、

断片情報から復元していく訓練は、社会人の「不完全情報」の世界においても、

そのまま「判断の精度を上げるための底力」として生きてきます。

復元力・再現力が高いというのは、「仮説や見立てがうまく、推測する力に秀でている」ということにも通じますからね。

でも「受験勉強は社会では役に立たない」って主張も、わりと根強いよね

あかり
たすく

たしかに知識そのものは忘れますが、

断片情報をもとに「道筋を組み立てる力」「判断の精度を上げていく力」は、

受験勉強をとおして訓練した人のほうが有利だと実感します。

頭を使っていることには変わりないですからね。

なのでぼくは「役に立たない」ことはなく、

むしろ受験勉強の正味の果実が、一つ、ここにあると思っています。

ここに納得できるものがあれば、学歴などは二の次なんです、本当は。

仮に中学卒・高校卒でも、的確なビジネスを見つけて大きくした経営者が、大学卒の従業員を雇うのが、社会の実力主義であり、現実ですからね

「人よりも多くの情報を処理できる力」も、受験勉強の果実だよね

あかり

 
さていかがだったでしょうか。

皆さんにとって、何らかの気づきにつながれば幸いです。

今回もお付き合いいただき、ありがとうございます。

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花丸たすく

▸高度情報処理技術者(ITストラテジスト)
▸データアナリスト、ラーニング・アドバイザー
▸「学び直し」に挑戦する社会人を応援
▸落ちこぼれ→京大→教育関連企業→現在
▸「学び直し」から得た「気づき」こそ成長の源泉、現実を変える力
▸武器になる「学び直し」のキホン
▸資格取得・大学受験のエッセンス
▸「勉強マインド」作りへ、自分のノウハウを全部公開

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