「学歴」は「優秀な人材」を選抜する基準
はじめに
こんにちは。花丸たすく(@hanamarutask)です。
本当は「受験勉強」と「社会に出てからする勉強」の根本的な違いについて書こうと思ったのですが、どうしてもその前に触れたほうがいいと思ったテーマを先にやります。
「いい学歴」が「優秀な人材」とは限らないこと、今回はこっちを先に書かせていただきます。
この記事は、社会人だけでなく、受験生の人、また学歴にコンプレックスがあるという人にも読んでもらいたいです。
ちょっと大事な話をします。
社会が求める人材とは
いうまでもなく戦後の日本は、学歴社会で成り立ってきました(戦前も「帝大出身者」の流れがありました)。
日本の官僚機構は、今もって東大が主流です。
ノーベル賞を毎年のように受賞し、世界をリードする日本の科学技術を支えている方々の多くも、京大をはじめ、日本を代表する大学の出身者ばかりです。
大手企業も同様です。
なんだかんだいって学歴主義が否定できない理由も、たしかにあると思います。
一般的な価値観において、特に昭和時代などは、そういう一つの成功例としてのライフモデルがありました。
いい大学に入ると、いい会社に入ることがきで、いい結婚ができ、豊かな生活ができる。
誰もがあこがれる「幸せ」を手にする出発点、その第一歩が「学歴」であり、
そのために猛烈な受験勉強をする、といった具合です。
そして日本は終身雇用制のもと、何十年と進んできました。
そもそも国や企業が求め、必要としてきた人材。
それは第一に、優秀な人材です。
では「優秀」とは何をもって判断するのでしょうか?
それは「いい大学を出た人」です。
なぜなら、その中から探すのが「手っ取り早い」からです。
昔と比べれば学歴主義のほうが実はマシ
先日もある大手就職サイトが、いわゆる「Fランク大学」の応募者を自動的に却下していた疑いが漏れて、「差別ではないか」として、取り上げられました。
ぼくなりに意見をすれば、それは「当然の判断」であって、「差別」ではないと考えます。
「現実の厳しさ」とも言い換えられるでしょう。
たしかに有名大学は誰しもが入れるわけではありません。
しかし受験するだけならば、高校の卒業資格を持っていれば誰でも受けられます。
そこに家柄も血筋も、貧富も家族構成も年齢も、一切関係ありません。
当日の試験で点数さえ取れれば、平等に合格するしくみです。
よく学歴主義をなげく人がいますが、大昔の社会制度と比べれば、実はかなりマシです。
江戸時代なんか、どんな家業の家柄(例えば農民など)に生まれたかで自分の職業が自動的に決まり、変更も許されませんでした。
逆に偉くなりたいといっても、西洋でいえば、王になれるのは王家の血筋に限られるわけです。
贅沢ができる貴族などもごく一部であって、大多数の人は "ほぼ自動的に” 平民以下(=貧しい暮らし)であることを強いられるわけです。
人生の基本ステージを変えられるチャンスは、ほぼゼロなのです。
そういう「差別」と比べると、学歴にはまだ平等性・公平性があり、「一発逆転」のチャンスがあるのです。
難関受験・資格を突破する人の共通点
だからこそ上位の志望校に合格したいと思えば、それ相応の準備をし、環境を作り、競争に勝たないと夢は叶いません。
そのため、合格者の多くに共通すること。
それは例えば高校時代などに、必ず何かを犠牲にしている、という現実です(もちろん受験者全体に当てはまりますので、ご了承ください)。
何かを得るということは、何かを犠牲にする、ということです。
そして、そのことを受け入れて行動に移すことなのです
人にも寄りきりですが、たとえばゲームの時間、「暇だ~」と思ってツレとつるんでいる時間、アルバイトの時間、彼氏・彼女を作って楽しむ時間。
多くの人がそういったことに時間を使って「今」を生きているときに、一向に「将来」をとらえて「勉強」をするわけです。
10代の、何をやっても一番楽しい、何でも経験したことがセンスや感覚に変わり吸収されていく貴重な青春時代のうまみを削り落として、「受験勉強」に充てるわけです。
さらに、目的に向かって「どう計画を立て、実行すればよいか」「今自分は何を克服すべきか」といったことも必要になります。
自己分析力、マネジメント力、実行力、工夫のできる柔軟性といった力です。
そうした資質も勉強を通して身につけ、磨いていかないとなかなか難関を突破できないわけです。
いい学歴というのは、一面からいえば、そうした総合的な努力が結実したものということになります(当然、絶対論ではありませんのでご了承ください)。
なので「いい学歴」というのは、単に「大学名」のネームバリューがあるといったことだけでなく、
- 「目的のために別のメリットを犠牲にできる強さ」をもっていること
- ストレスに向き合い消化できる「メンタル耐性」を備えていること(たんたんとルーティーンを続けられるメンタル)
- 計画性をもち、目的の達成に向けて条件をそろえていけること
といったことを一定の水準で証明したもの、と言い換えることができるでしょう。
さらに社会には、どの大学を出ても「卒業生」の先輩たちがたくさんいます。
そうした人たちとのつながり(=学閥)も、ある程度、意味をもちます。
上司や先輩にとってみれば、同じ大学出身の後輩というのは、一つの安心材料として、好意的にとらえることが多いのです。
競争社会で、何かあればすぐ揚げ足をとりにくるような人に囲まれていれば、自然とそうなりますよね。
それで「どの大学を出たのか」というのが、企業によってそれぞれあるわけです。
企業が重視するのは、あくまで企業側の価値観
先ほどあげた資質は、まさに大企業が仕事を進めていく上で、人材に求める資質そのものです。
だから当然、大企業は高学歴から順に取りたがります。
これは確率論からいっても正しいといえます。
そうした需要からいえば、その水準にない可能性の高いFランクが自動的にはじかれるというのは、厳しいですが、道理であるといえるでしょう。
このことを次のように言い換えてみましょう。
さて、あなたが給料を払うなら、どちらの人材を選ぶでしょうか。
- 目的達成のために自分をコントロールして、優先順位を付けていける人と、そうでない人。
- 中・長期の目線で行動を決めていける人と、今を生きる人。
- 挑戦を課してきた人と、普通に生きてきた人。
- 問題点をとらえ対策する人と、あまり深く考えない人。
種のないところに花は咲きません。
基礎があっての応用です。
すると「誰を採るか」という点で、自ずと答えが見えてきます。
企業が重視するのは「給料に見合うだけのパフォーマンスを返せる人材かどうか」だけです。
「給料はいくらほしい」「自分にも平等にチャンスを与えてほしい」といった応募者側の論理など考慮しません
今回はいったんここまでとさせていただきます。
お付き合い、ありがとうございます。
そして皆さん、最後まで読んでいただいて何ですが、
ここまでは、あくまで「序論」でございます・・・。
実はここからが本題なのです!
前置き、ながいわね~
そういう理屈の上で長いこと学歴主義が力を発揮してきたわけですが、最近はそうとは限らないのです。
一体どういうことでしょうか。
続きは下記の続編をご覧ください!
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「いい学歴」が、そのまま「優秀な人材」とはならないワケ②
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受験勉強を通して身につけた力は、その多くは社会でも使えますが、一つ「落とし穴」があります。その点を取り上げています。お楽しみに。